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ここに打ち込もうと思う夜や辛い時とか忘れたくない時だったか最近はどうも前とは違う心持ちになったようだ。

毎日毎日勝手に溢れ出す涙になぜなんだと問いかけながら胸をさそると、さらに心に黒い影が重なる。毎夜、どうしようもない自分と向き合いつつふとした1日の瞬間に生きることへの意味を導き出そうとする。

夏目漱石の先生は十代後半でぐるぐると考える質であったと言い、生きることについて考えていた。そこに自分を照らし合わすとなんだか、20にしては未来を悲観的に観察し自信を見下しすぎているかと考えさせられた。

ある時、学友と40歳の自分について軽く話をすると、癌などで苦しまずに死にたい。そこまで長生きはしたくないとの発言にまた、自分のなかの二極面うちの一人が肯定的ではない感情を抱いた。そう言った瞬間に驚かされる。こんなにも思い詰める自分がいる中で、学校では知的な発言をし年代相応な発言をしようとする自分のギャップにうまく取り繕っているなと感心する。そして、上記の学友の発言に回答を述べると、私は正直20までも自分自身が存在している確信など10代では持てていなかかったのだ。そんな自分自身の生命力を今、客観的に予想すると過信気味た希望でも40まで生きているのか怪しい。しかも、一般的には家庭があり子供もいるだろう。なおさら、想像できない。

 

生きることは辛くない。ただ、生きることに対して真剣に向き合い毎日の連鎖に意味のなさを抱いてしまい、頭に憂鬱の念が浮かび上がると。今を生きるのが辛くなる。頭が辛いんじゃなくて、生きること全般が辛いんじゃなくて、それについて考えるとき。その瞬間がどうしても辛い。

 

他人からの悲鳴に近い助けを乞う気持ちにどのように答えればいいかわからない。私は人よりも自分で言うのはなんだが物理的に長い期間辛い時間を過ごしたと思う。さらに、そこから影響された辛さを含めると相当である。だからこそ、人にかたれるほどそれらの気持ちの言語化はうまく、考えてきたこともあり伝えられることも多いはずである。だが、毎回普遍的なことを問いかけその場をなんとか凌ごうとしてしまう。苦しいことから逃れたいのであれば、そんな目に見えたことなどよりもマインドに響くことを提示し気持ちの切り替えを優先にしたほうが良いのはわかっている。なんとなく、自分一人でこの手にことについて考えてきた時間や考え方を愛撫しながら抱きつくように、誰の手にも届かないようにしている。

私は私が怖い。いつか簡単に死にゆくための行動をとってしまうのではないかと。それは死に対する怖さとは違い、命を軽視するマインドを持った自分が怖いのだ。MARSの聖が人間をただの肉片として扱うように、それと似たような感性を持っている。

いつかそんな日が来たら、誰かこの日記に示されている内容を見て気づいてほしい。基盤に高校での出来事があり、自分がどこか変わってしまったことを含め、死のうが破滅的な思想を持ち合わす問題は他人ではなく自分の中にあるのだと。