sad episode

旭川市の女子中学生いじめによる自殺のドキュメンタリーを見た。

どこまでがいじめなのか。辛いことなのか。状況に追い込んでいるのは自分が悪いせいだ。ことば一つ一つがいつだか思っていたことと同じで似ている境遇だと思った。

 

一つ違うことは自分は今生きていること、共感してくれる人があの時にいたこと。

共感してくれる人にもいまだに言えていないことは電車を見てすぐに死ねると思い足が動いたこと。だけど自分自身で止まった。

 

いまだに毎日のようにあの頃を思い出す。記憶はずっと鮮明でどんな感情だったか思い出せる。目が怖くてずっと避けていたこと。学校では一人になりたくて人影のないところに逃げていたこと。出くわしそうになりそうなところでは顔を下にむけ気づかれないように、気づかないように行動していたこと。

小さいことでもその時傷付いた言葉をかけられた時には泣かないように耐えていた。望んだ結果ではないけど自らこうしようと決断したことにも悲観的になっていた。

惨めだとは思わないように思わせないように生活するのはすごく大変で、大丈夫じゃなくても強気になっていた。

あの当初は何が自分にとって悲しかったのか分からなかったそして何が辛いのかも分からなかった。だから、頼ったのは同じ学校にいる姉であった。何があって今日は部活動に行けそうにない。そんなことで休まないほうがいいよ。特に安心するような内容は返ってこなくて、その時にこれはそこまで心を苦しめる内容ではないんだ。その時に感じた。そして、先生にもそのことは伝えずに休もうとした。そしたら、そこには否っかった部員が伝えて大ごとになった。関係のない人が参入することであちら側とこちら側は加害者と被害者という関係性になってしまい余計周りの見る目が変わった。

ラベルが貼られることでお互いの対立意識を芽生えさせたのだと思う。

数年経った今でも大きく影響していると思う。今回ドキュメンタリーを見てドキッとしたのが、死について何度も考えていることだ。自分自身の命を軽視する傾向がある。高校の時に通過する貨物線を見て芽生えた感情を今でも忘れない。目の前に死に方があったらそれに吸い込まれるように勝手に体が動く。経験しないと分からないと思う。無意識に動くのだ。死のうか考えようともせず、しかも明日死のうこれから死のうというふうに事前に考えていたわけでもない。今でもこの経験を誰かに伝えたことはない。

 

中学生の少女がSNSで死ぬ前に拠り所として投稿していたのと同じで、自分も共感はされなくてもいい。だけど、何があってどんな状況から今があるのか真実は真実として語られてほしい。これほどまで実際あったことを知るには同情だけでは分からないことはないと思う。誰かが助けたい、話聞きたい、死なせたくない。と思いながら周りに同じことが起きないように広めようと、味わったことのない人に真実を全て伝えることはない。なぜなら、いじめられた人というラベルを貼られること自体に抵抗があるし、ことばにしずらい痛みがあるからだ。