過去の自分を久しぶりに振り返ったのだが、ものすごい自己嫌悪と死に対する軽率さがわかる。久しぶりにここに戻ってきた私は少し大人になって違った経験をした。そして見え方も変わって死というのを自分の精神状態の中で身近に感じなくなった。少し心の中に一人の人が介入してきて生きる意味というか明日の自分をどうするか未来について考えるようになった。

 

人って分かり合えない。理解しようとしても仕切れない。でもそこに楽しみを見出せたらどんなに相性の良い関係になれるだろうかと最近は思う。でもそれには一番難しい向き合うという動作が必要になってくる。それが嫌いな人もいるんだよ。

 

最近は自分の心に従おうと行動をしている。まだ好きなのかとか、未練があるのかとか色々と考えるが答えは出しにくい。けど、新しい服とか自分のスタイルがよく見える服を着たときに見せたいと思うのはまだ好きなんだと思う。

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最近の自分は自分じゃないみたいな

なんだかみんながよくこの言葉を使うのは恋愛をしている時なのではないだろうか。。。

自分が彼にとって何が特になるのか、どこを好きになってくれているのか。今どこで誰といるのかとか、強がっていたけど普通の女の子みたいなことを考えている。

実は言うと本当にどこで何を誰としていてもかまわないのだが、関係ないところにいる自分を勝手に傷つけないでよとどこまでも自己中でどうにもならんような考え方をしている。しかも心のどこかでは自分に左右されずに自由に生きてほしいとも心から思っている。だからこそ惑わせずに非公開にするなりしてストーリーやらなんやらにあげてほしい気もする。

 

考えすぎるなとか知りたいとか自分はそんな言葉で話して全てを伝えられるほどの薄い人生は歩んできていない。伝えたところで軽くあしらわれてその場の言葉で丸く抑え込まれるぐらいならこの辛い過去も大切にしまっておこうと思ってしまう。自分のアイデンティティの中核とも言えるこの思い出を。やはり誰にも心開かずいや開こうとしない。

誰も傷付かず傷つけずこの世の片隅で静かに一人で呼吸をしたくなる自分は誰かと生きていこうとするのは難しい。相手の時間を大切にしたいと思う片割れにそれをいつか駄目にしそうな自分が想像できてしまうと身の毛も逆立つような世界に対する嫌悪感を抱く。本当にすべてが気持ち悪くなる時、幼い頃のビックの記憶が優しく巡ってきて現実の感情に戻してくれる。

私が頭の中で考えていることってこういうこと。現実的でなくあなたに関係ないこと。私の全ては誰にも見せない。

不意にくる自分の無敵さとか自信を与えてくれる。

顔が整っているとか性格が良いとかを意識せずに未来を想像した時に一緒にいられるような人を好むようになったのは歳のせいであろうか。

こんなことが好きと言った後に熱心に話を聞いてくれるところがすごく好き。自分の心を開示してくれているのが心地よい。前を歩いていたら話しかけたくなり早足にさせるような人。

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今日は傷ついた日。

頑張って息を吸おうと、重くなる心に自分が傷ついているのだと気づきながら耐えた日の帰りでも、また傷ついたのを隠しながら人の話を聞くのだ。

自分は誰に悲しかったことを話せば良いのだろう。どんなに傷ついた日でも誰かの話を聞き耐えればいいのだろう。自分ことをどうやって伝えれば良いのだろうか。

人からの悪意のある発言を丸一日インプットした後に、また誰かの幸せを祝わなくてはならない。幸せムードにマイナスな事かと静かになると、ふとした瞬間にこの人は私の話を聞いてくれたことがあったであろうかと気づく。何か質問してくれたことがあっただろうか。自分のことを話した後に消化しきれていないような短い反応と共に自分の話が消滅するのあれば、話さない方がマシかと。

ふとした瞬間にこの人は私の写真を撮ったことがあっただろうか。頼まないといけないけど伝え方がわからない。また惨めな部分があった。

誰にいつか共感してもらえるだろうか。うんうんと言いながら長くなる話を聞いてくれる人はいるだろうか。

最近、毎夜毎夜乗り越えるのが辛くなってきた。死ぬか生きるか、そんな一枚の壁の狭間で生きる自分には今を生きるほどの価値が自分自身にあるのか問い詰める。そんな時に出る結果は死んだ方がマシだと心で密かに思っている。

聖が言う、人間は動くただの肉の塊というのも共感できる。

誰に頼ろうか。

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何に傷つき、何が苦しめているのかわからない。世の中の家庭を持つ幸せをを受け入れられない自分をどこか普通ではないと言われているようだ。

自分は自分のアイデンティティを確かめるため、あるいは自分を自ら否定し嫌いになろうと鏡に映る自分を見ようとする。自分と鏡の自分はまるっきり違くて、あまりにも不安と苦しみに駆られていようが感情のない顔つきをしている。そんなことに気付きながらアイデンティティを探しあるいは拭おうとする子供だ。

あまりにも自分自身に自信がない。それは全てにおいてだ。人と関わるほど不安は募り、いつか自分が一人になってしまった時、二度目は耐えられない。それが起こらないように、起こさせないようにと過ごすうちに関わる関係は狭くなり恐怖心は増す一方だ。自分はどこか欠落した人間であり、愛されたいと思うと同時に手放される覚悟はできない。また、子供が愛せなかった時。自分が取る可能性がある行動が怖い。そんな自分勝手な自分がまた、子供を育てるなど難しいだろうと追い打ちをかける。子供を望まない人間にパートナーが満足するはずもないと、そこから飛躍し自分は一人で生きた方がいいのではと考え始める。自分こそも知らず、夜な夜な自分を探そうとし、苦しくなって考えて。また、繰り返す。

夜だけだった心の苦しみも、今では過去を思い出した瞬間や本望は願っているが果たせそうにない未来を見た時に少し込み上げてくる。声に出して言えば救いをくれるかもというタイミングでも目頭だけが熱くなるだけで口は閉ざしたまま、苦しみを噛み締め移り変わる景色を見ることしかできなった。その時、自分のこの苦しみは一人でどうにかするべきことなんだと知る。菩薩や如来に密かに苦しみを取ってくれと静かに願ったように、目に見えない何かを手繰り寄せ心の平穏を願う。

it can't be helped

悲しみに駆られて涙を流す自分を違う自分が疑いを持つ。本当に悲しいのか。俗に言う悲しい話、気を落とす話によくある流れで涙を流しているのでは何かと。そんなふうに思い始めると自分はいつ誠実な気持ちを表すのかと問いかける。無性に泣きたくなる時、無意識に心が痛くなり涙が流れる時。そんな時しか自分自身を信じられなくなってしまった。わざと涙がながっるのを何も考えずに待つ。

ある結果が不登校にさせたり、追い込んだり。ひとつのこと。たった一つのことが自分自身の歯車を狂わせる可能性がある。それは良い方向に行くかも知れないし、悪い方向に行くかも知れない。今こんなふうに、真夜中に眠れずに考えることがこんなことなら、おそらく自分は悪い方なのだろう。長く頭の中で論争してきた。何かが変わった。自分のどこかが前とは違う。こんなにも自分自身のことについて考えるようになったのも、一つ変わった部分でもある。前まではこんなにも自分自身について考えたことがなかったから、この違和感を取り除き戻ろうとしても戻れない。檻からようやく出れた家畜が野生界に巣がないように、帰る場所がない。

 

いつからこんなに自分自身を嫌うようになったのか。思い当たる節が今夜見つかった。高校の時、ゴミ出しをしに行くと部活に行く波に飲まれる。自分はゴミを持ち周りは大きなリュックを背負って足速に動く。早く歩く必要のない自分と急がなくてはと言う思いに駆られる周りの人間。自分はゴミを片手に。ちっさい事だなと思う人が大半だと思うが、下を向いて歩くしかなかった自分が恥ずかしかった。自分で自分を恥ずかしいと思う自分が惨めで視界を下に。

小さいきっかけが何かを狂わせ、いまだに受け入れられない自分がいる。自分の一部になりきっていない。自分が取る行動や感情の変化に違和感を感じ。何度も考える。

 

そして、これを打ち込んでいる間にも自分の話を美談にするように、自分大好きな語りやではと心のうちで騒ぎ出す。なんて可哀想な子なの。いじめられて可哀想に。頭を撫でて安心したいのか、自分の栄光を語りたいのか。また混乱の中にいる。

 

ここ数年間で心の中でとどめていることは、言葉で出てきた心情は偽物だと。瞬間で感じるものは言葉よりも先に感じるものがあると。それは雑念でも巧みに操られた言葉で認知するものでもない。

心にとどめて置けるものがあると、自分自身がわからなくなった時に自分自身の気持ちを測る定規となる。