letting go 4

大きな何かを失ったかのように、日常のある瞬間にポツリと心が思い出す。分かるでしょ。匂いとか一緒に歩いた道とか景色とか、最後の日迎えにきてくれて雨の中傘を刺して隣で一緒に歩いたこととか。日常の間にあなたの愛を心が探しているように思える。人の感情はもっと繊細で悲しいとか嬉しいとかそんな曖昧な気持ちだけを抱えているわけではない。喪失感・愛おしい・懐かしい・悲しいそんな感情がコンマの世界で心が感じている。一気にそんな濁流に流されて、残った引き波のような余韻が静かに帰っていく様子を眺めると静けさが増す。そして、祈りにも似た願いや後悔が頭をよぎる。もっと強く抱きしめておけば、もっと匂いに包まれておけば、もっと伝えとけば。最近さらに気づいたことは人は思いのほか苦しみや悲しみに駆られながらも生きることはできるし、隠すこともできる。さらに、愛が欠落すると生きることを考え始める。誰かに求められて誰かを求めながら生きることが人間の本質的な欲望なんだと知る。

あれから一週間が経ったらしい。あまりにも長い一週間だった。とっくに痕は消え、彼が残した影もなくなる。どうにもならないこの感情にいつの間にか気づいたら終止符が打たれていた。とならないようにこの感情を殺さずに思い詰めて行こうと思う。

letting go 2

さて、私たちの数週間の後半といこう。昨日打ち込んでいた日の心持と今日ではやはりどこか違いがあり、彼がいない日常に自分が少しづつ溶け込んでいるのが分かる。早くしなければ、この気も起きなくなってしまう。昨日の続き、伏見稲荷駅からの出来事である。

足は疲れていたが、心か軽快に動き嬉しかった。理想と言いてもいいぐらい優しく、いつの日か願った内容であった。だが、会うのは嫌だと心が拒否をする。次の日の次の日の会おうと誘われる。どこか嫌がる思いが勝ち、断るのも億劫だ。少しの時間ならと思い、ある授業の間にあった。忙しいふりを彼の前でしてあたかも自分ではない自分を装う。それでも、隣で座ってあどけない日本語を使ったり、、、けど手は触れてこない、近づいてこようとしない。少し物足りなさを感じた自分の心に天秤が下まで下がったのがわかる。私はこの人に触れてもらいたいんだと。そして私も触れてみたいと欲求がよぎる。時間がきた、授業に行かなくてはと言いながら合間を探る。5時間目の校舎には人影が薄く、欲求の水がダムから流れ出るように帰り際にハグをした。そして強く抱き返してくれた。思いと思いがどこか正面でぶつかるように言葉がなくても感じるとはこのことだと思った。そしてまた、壁はくる。私も良い大人だ。想像すればわかる。次会うときはと想像が膨らみ怖さがあった。また、避けた。何度も避ける私に正直に話してくれる彼、自分に嫌気が差すととうとう正直に告白した。怖くて避けていた。理解しつつも強引に話を進める彼をもう一度拒否する。私が拒否した二日間は違う人と時間を彼は過ごしていた。そして、こんなテキストが届く。今、女性とキスをしたらあなたは嫉妬するだろうかと。嫉妬はしないと言いつつもしないで欲しいと思った。でも矛盾しているこの環境に何も物申すことはできない。次誘ってくれたら彼について行こう。

letting go

とうとうこんなことを打ち込みたくなるとは誰が想像できただろうか。いつか急に死んだ時に誰かがこれを目にしたらいいなと思う程度に打ち込んでいたことだが、少し恥ずかしい思いを死んだ後にするかもしれない。どんなに濃い思い出も経験も時間は酷いことに色を褪せさせ、思い出すのも難しくさせる。そうなると、大切だった思い出も新しいことに上書きされ、新聞の号外が人の目を引くように注目度や重要度が自分の心の中で下がってしまう。だからこそ、今の思いが大事であり、今忘れたくないことを将来のためにもがくように打ち込もう。

 これは私にとって大切で、今は乗り越えようとしている。俗にいう失恋というやつであり、後に引いても前にひっぱっても自分には無関係である類の事柄だと思っていた。思っていた以上に人間は他人に情を移すと弱くなるらしい。

 

最初の出会いは、学校の芝生の上で近くにいた。皆が口を揃えていう、「彼氏が欲しい」という言葉に同感できない自分はどこか人間の本質的なところが欠けている人間なのだと感じていた。さらに自分自身の自信がなかったことと人間に対する疑いがこの歳になっても拭いきれていなかった。それほどなら一人で生きれば良いというのが道理だろう。そう、だからそうしていた。避けて、拒否して。最初に出会った日は自己紹介と雑談ぐらいで終わった。次出会うときは私の友達がコンタクトを取っており付き添い程度であった。次会うときは彼から私にコンタクトを取ってきて会うことになった。付き添い程度の私だったため、なんだか友達に悪い気がした。お昼ご飯を食べて、好きな曲、趣味の話をする。まだ、他人行儀で気を遣う。この人は何を考えているのだろうか。心斎橋まで行きイングリッシュカフェに招かれる。英語が話せない。けど、定期的にアイコンタクトを取り笑いかけてくれる彼がいたから嫌な空間ではなかった。少し心を開き話しかけてみる。ご飯に行く、隣にいてくれる。英語が話せない自分の隣なんかでいいのだろうか。ヨーヨーを教えてくれる。あまりにも優しすぎではないだろうか。自分はこんな待遇を受けたことがない。後で嫌な思いをするのであれば今なら引き返せるから少し離れてみようか。クラブに行くことになった。気が進まないが彼がいるなら行ってもいいかも。お酒を待っている間に日本人ではあり得ない質問が飛ぶ。戸惑いを隠しながら嘘をついた。いつものことだ。そうかこの人をこういうふうに私を意識しているんだ。お酒が入り、足が少し震えている。やめておこう。隣で同伴していた彼が手をさすってくる。彼にはバレたくないけど、これを振り解くほどの英語力も知識もなかったからそのままにした。気づかれたかな。雨が降っている。急な階段、絶対にレディファーストを守っていた彼が前に出てエスコートしながら手を繋ぐ。振り解くかなと思ったがそのままだった。酔っていたし簡単に勇気が出て、繋ぎ方を変えた。男の人のてってこんなにでかくて暖かいんだと思いながら力を入れる。けど少し気持ち悪い。なんだかわからないけど、知らない人に恥ずかしい部分を見られみたいに心が収まりきっていない。酔っているけど思考はフルで回る。まだ大丈夫そう。飲みが進んでいない様子を見て私のてからお酒を取って飲み干す。なんでこんな優しいのかな。なんで気づいたのかな。もう帰ろうとしているところ、始発はまだ来ない。その時間までは一緒に過ごそう。ずっと手を繋いで特に会話という会話もなく朝の鴨川を歩いた。ポーカーフェイスのくせに心臓は騒がしく慣れない状況に拒否する体は疲れていて、早く帰りた。そんな中、キスをしていいかと言われた。同伴した彼からしてもよい雰囲気なのではと聞いたと。あなたの意見ではないところと声質が上がる日本語に嫌気がさし、背中が凍る。嫌だ。断ろうと決め日本語で説明する。悲しそうにするも手を繋いで歩くとどこかで囁く。毎度のようにおそらく発展するであろう状況から逃げてきた自分はいつもと同じだと思っていたが、どこか興味があり、経験を意識した。まあいっかと駅のホームに着く前に承諾した。一回だけなら、これで自分の心と天秤にかけてみよう。私の心がどんな反応するか。情けで許可したの思った彼は何度も大丈夫かと聞いてくる。あなたの理性はどこにあるのだろうか。他の人からの意見だからだろうか。駅のホーム、観光客が賑わうこの駅はさすがに朝5時では人が一人。これならいいかも。周りを確認する。右左と見たところで、大きな手が左から優しく支え顔が近づく。ここでもやはり優しい。柔らかい。そして背中をさする。ここで落ちた。数日前とは何かが明らかに違う自分に恥ずかしさを覚えながら、また始まった時間を過ごす。数日間、彼を避けた。

k

ここに打ち込もうと思う夜や辛い時とか忘れたくない時だったか最近はどうも前とは違う心持ちになったようだ。

毎日毎日勝手に溢れ出す涙になぜなんだと問いかけながら胸をさそると、さらに心に黒い影が重なる。毎夜、どうしようもない自分と向き合いつつふとした1日の瞬間に生きることへの意味を導き出そうとする。

夏目漱石の先生は十代後半でぐるぐると考える質であったと言い、生きることについて考えていた。そこに自分を照らし合わすとなんだか、20にしては未来を悲観的に観察し自信を見下しすぎているかと考えさせられた。

ある時、学友と40歳の自分について軽く話をすると、癌などで苦しまずに死にたい。そこまで長生きはしたくないとの発言にまた、自分のなかの二極面うちの一人が肯定的ではない感情を抱いた。そう言った瞬間に驚かされる。こんなにも思い詰める自分がいる中で、学校では知的な発言をし年代相応な発言をしようとする自分のギャップにうまく取り繕っているなと感心する。そして、上記の学友の発言に回答を述べると、私は正直20までも自分自身が存在している確信など10代では持てていなかかったのだ。そんな自分自身の生命力を今、客観的に予想すると過信気味た希望でも40まで生きているのか怪しい。しかも、一般的には家庭があり子供もいるだろう。なおさら、想像できない。

 

生きることは辛くない。ただ、生きることに対して真剣に向き合い毎日の連鎖に意味のなさを抱いてしまい、頭に憂鬱の念が浮かび上がると。今を生きるのが辛くなる。頭が辛いんじゃなくて、生きること全般が辛いんじゃなくて、それについて考えるとき。その瞬間がどうしても辛い。

 

他人からの悲鳴に近い助けを乞う気持ちにどのように答えればいいかわからない。私は人よりも自分で言うのはなんだが物理的に長い期間辛い時間を過ごしたと思う。さらに、そこから影響された辛さを含めると相当である。だからこそ、人にかたれるほどそれらの気持ちの言語化はうまく、考えてきたこともあり伝えられることも多いはずである。だが、毎回普遍的なことを問いかけその場をなんとか凌ごうとしてしまう。苦しいことから逃れたいのであれば、そんな目に見えたことなどよりもマインドに響くことを提示し気持ちの切り替えを優先にしたほうが良いのはわかっている。なんとなく、自分一人でこの手にことについて考えてきた時間や考え方を愛撫しながら抱きつくように、誰の手にも届かないようにしている。

私は私が怖い。いつか簡単に死にゆくための行動をとってしまうのではないかと。それは死に対する怖さとは違い、命を軽視するマインドを持った自分が怖いのだ。MARSの聖が人間をただの肉片として扱うように、それと似たような感性を持っている。

いつかそんな日が来たら、誰かこの日記に示されている内容を見て気づいてほしい。基盤に高校での出来事があり、自分がどこか変わってしまったことを含め、死のうが破滅的な思想を持ち合わす問題は他人ではなく自分の中にあるのだと。

v

そう、誰かの幸福が自分を不幸にさせたり、誰かの不幸が自分の幸福になったりする。

どちらか一方を引っ張りすぎるといつか引っ張り返される気になってしまうし、引き用せようとしても近づきはしない。

自分自身について自分が考えると不幸に酔っていると言われる。どんなに酒に溺れながら幸福を感じてる人も愛した人と幸福を感じながら息をしている人には不幸の上になっている人のように自分自身を振り返って崖に落とそうとはしない。

誰かの行動が今の自分の気分を害しても、誰かの幸せが自分にとっては不幸に感じたとしても、相手のせいのようには語れないし思えない自分はやはりどこか人間に興味がない人なのかもしれない。

plight

受験が終わったからそれなりに不安も和らいで、涙腺緩んだり、痛んだりもなくなるだろうと思っていたけど違ったみたいだ。何も受験期に期間で受験だのなんだのに不安がっているんだと思っていたけど、違う要因があるようだ。

 

ふとした瞬間、誰かが泣いていたり場面だったり、サウンドが悲しかったり、似ていたり。きっかけがどんどんと広がっていて何が自分をそうさせるのかを把握しながら直面しないように落ち着かせることが難しくなってきた。まず最初に痛み出す。そして、自分がかわいそうな奴なんだと見せたいがために故意にないているのだと思わせる。マインドチェンジを促してもどうにも止まらないと、思考が一気に制御出来きずに同じ記憶の場面がその時の気持ちと映像で張り巡らされる。普通ではない。何かが欠落している。それが精神的な病気として症状なのか、自分を可愛い可愛いと思う自愛からきているのか。

 

ふと無意識に髪を触っている。見た目的にも手ぐせを治したいと思うがどうも難しい。昔から何か癖があった。爪を噛んだり。。。これも精神的なストレスからなのかわからないから調べた。ストレス、甘えたい、誰かから頭を撫でてほしい、自己中心な人が多い、、、やはり自分が可愛いのか。誰かにも言われた気がする。人が怖い、それなら人と関わらなんどこう。=自己中心??いや違った見解もあるだろうけど。ふと髪を触っているのに気づくと何か溜めているのかな?誰かに構ってほしいのかな?自問すると心が悲しくなってループし出す。

 

こんなにもかよわかったかな。

way of thinking

晴れない気持ちに正面から解決しようと持ちかけてみる。

その場のノリや良し悪しの区別の違いをもっと寛容的に捉えていれば引き起こされなかった。そんなふうに言われた。

わからなかった。女子高校生のうわついた会話の内容と表面的な受け答えをする環境が不愉快であったこと。時が経つごとに嫌いになっていたこと。何度か受け入れようとして顔を作ったが耐えられなかったこと。不誠実さが滲み出た奢りあい。そこから逃げる自分自身に嫌悪感を抱く。自分が少数派であることに気づくのにさほど時間は掛からなかった。

どこまで行っても共感に飢えていて、いまだに消化しきれていないのは一人で自問自答しているからだろうか。誰かに頭を撫でられるように同情されるのを待っているのだろうか。

 

同情という感情にも敏感になってしまった。部活の友達も後輩もいなく、卒業式に花束を渡されるような人ではに自分がなぜかクラスの子から貰った。その時ばかりは嬉しくて高校生活で嬉しい出来事の一つになったのだが、その花束は部活を辞めて誰からももらえない自分に哀れみの同情からのものであった。「かわいそうだからあげてよ。」そんなふうに言われているようで反面傷ついた。

こんなかすかなこと、誰かが自分と関わってくれたこと、全てを拒否しまう。どうにかそろそろ治ってくれないだろうか。毎夜毎夜これを乗り越えるのは時間の無駄である。一見今から過去を見るとよくないこととして残っているため、その頃の全ての行動を否定しがちである。どんなことでもそうだ。ある口喧嘩が大きくなりさらには包丁を手に取り相手を殺してしまった。あの時口喧嘩さえなかったらと脳裏に浮かぶだろう。そしたら結局は口喧嘩をするのは良くないと思わせてしまう。それと同じで全てを引き起こしたきっかけやそれまでの対人関係の築き方などが疑われる。今で言う、もっとノリが良かった、参加していればなどである。だが思う。新しいことを追加して解決するのではなくあったことを全否定するスタンスはいずれかはマイナスになる。みんなと同じことを流されてするのではなく、自分一人で考え行動する強さも大事だと考える。