way of thinking

晴れない気持ちに正面から解決しようと持ちかけてみる。

その場のノリや良し悪しの区別の違いをもっと寛容的に捉えていれば引き起こされなかった。そんなふうに言われた。

わからなかった。女子高校生のうわついた会話の内容と表面的な受け答えをする環境が不愉快であったこと。時が経つごとに嫌いになっていたこと。何度か受け入れようとして顔を作ったが耐えられなかったこと。不誠実さが滲み出た奢りあい。そこから逃げる自分自身に嫌悪感を抱く。自分が少数派であることに気づくのにさほど時間は掛からなかった。

どこまで行っても共感に飢えていて、いまだに消化しきれていないのは一人で自問自答しているからだろうか。誰かに頭を撫でられるように同情されるのを待っているのだろうか。

 

同情という感情にも敏感になってしまった。部活の友達も後輩もいなく、卒業式に花束を渡されるような人ではに自分がなぜかクラスの子から貰った。その時ばかりは嬉しくて高校生活で嬉しい出来事の一つになったのだが、その花束は部活を辞めて誰からももらえない自分に哀れみの同情からのものであった。「かわいそうだからあげてよ。」そんなふうに言われているようで反面傷ついた。

こんなかすかなこと、誰かが自分と関わってくれたこと、全てを拒否しまう。どうにかそろそろ治ってくれないだろうか。毎夜毎夜これを乗り越えるのは時間の無駄である。一見今から過去を見るとよくないこととして残っているため、その頃の全ての行動を否定しがちである。どんなことでもそうだ。ある口喧嘩が大きくなりさらには包丁を手に取り相手を殺してしまった。あの時口喧嘩さえなかったらと脳裏に浮かぶだろう。そしたら結局は口喧嘩をするのは良くないと思わせてしまう。それと同じで全てを引き起こしたきっかけやそれまでの対人関係の築き方などが疑われる。今で言う、もっとノリが良かった、参加していればなどである。だが思う。新しいことを追加して解決するのではなくあったことを全否定するスタンスはいずれかはマイナスになる。みんなと同じことを流されてするのではなく、自分一人で考え行動する強さも大事だと考える。