今日は好きな映画を勉強の合間に観て違う世界観に気づいたので少し自分なりの考察を入れたいと思います。
心が一度止まったシーンです。
彼女への愛を口にすることができない
そしてある日男性は問いかけます。
「話すべきか、命をたつべきか」
それを聞いていたエリオは言います。
そんなことを聞く勇気はない
そしてお父さんが声をかけます。
エリオ いつでも私たちに話すと良い
そしてエリオは同性の好きな人にこの話をします。
「彼女は離してというが何かを感じたから用心していた。結果話せずに確信を避け
た」
エリオは似たような境遇にいたのかもしれません。そして、少しずつ探っていた。このときこそ核心を避けながら。語りに出てきた男子のことを話しながら自分の照らし合わせていたと思うんです。
映画という一時間30分から2時間ほどの時間でこれほどまで気持ちの変化を目にみえるように表すとはどれも程の表現力が必要なんでしょうか。これを作り上げることができる方の心情はどれほどまで広い世界を持ち合わせているのか知りたです。
これは言語学でも大きく活用できます。心情と音としてアウトプットして出てくる言語とはどれほど密着しているのでしょうか。心情のメーターが0から100だったらそれを表す言語も全く同じ量のメーターを持っているでしょうか。
人が表現するのは言葉だけでなく行動や相手に気持ちを探ってもらうというのも100%の気持ちを知ってらうには必要なことかもしれません。
この映画で気づきました。私は人から教わってから知ることや気づくことが多いのですがどのようにしたら自身の表現力が持てるのでしょうか。今日は疑問が多いですね。
小論文で生物多様性と言語の多様性について考えているとほんとうに人類の全てを支配しているのではないかと思うぐらい言語とは多大なるものをもたらしています。