MY MEMORIES

子供の時に住んでいたアパートに写真を久々に見てぎりぎり頭に記憶として残っているようなカケラを思い出しました。

 

節分の日。雪が降り積り外で姉と遊んでいると四階の窓からいつものように大声で鬼がおへそを持っていくから早く中に入りなさいと母にいわれたが父は雪かきをするから中に入らず心配だったこと。節分は母の誕生日ですがおそらくその時は覚えられていなかったでしょう。

暑い夏のお祭りの日。いつものなんだか違った日でわくわくしていてご飯はお祭りだからと言って軽くジャガバタを作ってくれて食べて外に出て行ったこと。

定期的に思い出さなくては忘れてしまいそうで怖いんです。

 

アパートでの思い出で鮮明なものはもう一つ。姉が救急車で運ばれた時です。砕けたガラスとおでこから顔が見えなくなるほどの血が溢れているところ。泣くこともなくただ座り叫び声が聞こえる。手術中の姉と外で母と二人で座り、絵本を読んでいると小さくごめんねと声をかけられた。

その後の記憶は全くないです。幼くとも状況を知っていたのか。

いつも同じ経験をしてきた双子ですがこれは決定的に違った心情を抱いた出来ことだったと思います。大きくなってからも姉は数回しかこのことにつて触れた話はしたことがないです。ですが、話してくれたことがきっかけで空白だった時間の記憶が急に私のもとに帰ってきました。ハンバーグを食べていて食べたくないと言ったこと。グラスが宙を浮いていたこと。

 

引き金は高校生の頃、前髪をなくすのが嫌だと言っていた理由がまだ傷が消えずにいたことを気にしていたことです。おそらく、母になんて絶対に言えませんので初めて口にしたともいます。

自分が知らなかったことも驚きです。そして考えたらふと知っていしっていた事実がありました。記憶は気分屋です。

 

あるインターネットの記事で私は死んだ母の声を思い出せないというのを見て毎日のように過ごしてきた家族でさえ記憶は容赦せずに衰退していくのだと知りました。その人は電話などした時は録音して忘れないようにするのをお勧めしていました。

 

離れて暮らすようになり聞かなくなった声、これを知ってからふと思い出しては声はどんなだったかと思い出し記憶があることを確認しています。

 

神は人間になぜ昔の記憶を覚えさせる能力を授けたのでしょうか。必ず意味はあるはずです。