The reason why I like itachi

沢山のことに触れることで言葉にできなかった感情に気づく頃がある。

過去に感じた気持ちから逃げようとして人をカテゴリー化したり、言葉を濁す。

誰よりも自分のために利己的な態度をとって、自分自身の気持ちを宥めるかのように行動する。それに伴ってできた結果に自身の頭を愛撫する。

 

いつから変わったのか、いつから面白くない人間だと気付いたのか。アイデンティティの構築とはこういうことなのか。時にうまく行ったことがあってさらに、相手を救うようなことができた時、「あなたはすごい、あなたは謙虚」だと言葉をかけてもらってもどうにも素直になれない。なぜなら、誰よりも自己中心的に生きてきたからだ。人を見かけや憶測で判断で決めつけるのと同じで、その時の自分がそんなふうに見えたに違いない。

 

ふとした瞬間に同調のような感情が生まれ悲観的になる。同じように体の心中が苦しんでいるかのように知覚する。これらのことを考えると悲しさや憎らしさは同一化されるのだと。

 

最近は、NARUTOを観ている。イタチの自己犠牲について。弟に憎しみを持たせ、自分自身を敵とし強くさせる。読者を完全にイタチは極悪人だと擦り付けた後に伏線であったと。彼は、全てを里と弟にかけて、家族と一族を殺した。誰よりも誰かを思っていた。イタチは一族で己の器を測られるのを嫌い、忠実な人間として使われた。

最後に気づくのは、周りに頼ることができたこと、誰かと共有できたこと。どこまでも胸が締め付けられる彼の一生にアニメだとしても何だかその人の存在を感じる。

 

学び活かしたいと思った部分は誰かと生きてくこと。頼ることができれば頼られる存在になれること。一人で成し遂げられないからこそ周りに人がいるのだと、そんなふうに人と触れ合いたい。また、自分自身を憧れの者で衣のように隠すのはやめよう。